(以下日刊スポーツ)

日本相撲協会は25日、元小結垣添(33)と元前頭剣武(33=ともに藤島)の引退を発表した。持ち回りの理事会を開き、垣添が年寄「押尾川」を襲名することも承認された。

 日体大4年時、学生横綱に就いた垣添は、01年秋場所に幕下付け出しデビュー。03年春場所に新十両、同年秋場所に新入幕を果たし、04年春場所では最高位となる小結に昇進した。

 日体大で垣添と同級生だった剣武は、01年春場所にデビュー。10年九州場所で、学生相撲出身としては最スロー記録となる所要58場所での十両昇進を果たした。

ある意味、これほど「同時」に引退することも、相撲人生の「因縁」である。

(以下ウィキペディア剣武)

度重なる怪我に悩まされて番付は停滞する。特に網膜剥離に悩まされ、左目を3回、右目も1回手術した。一時は引退も考えたほどだったが、網膜剥離で入院中の2003年9月場所で大学の同期で同部屋の垣添が新入幕で初白星を挙げて行われたインタビューで「入院している宮本の為にも今日は勝ちたかった」と話したのを見て発奮。2005年1月場所に3度目の幕下昇進を果たしてからは幕下の地位を維持し続け、じわじわと番付を上げていく。しかし上位の壁は厚く、幕下1ケタ台に番付を上げては跳ね返されることが続いた。

垣添の「後押し」がなくして、剣武の出世はなかった。

そして、ようやく「十両」に

(以下ウィキペディア剣武)

十両昇進への所要58場所は、学生相撲出身力士としては花ノ藤(日本大学)の40場所を大きく上回るスロー出世。



そんな、剣武は、関取になってから「運」を生み出す。

(以下、ウィキぺディア剣武)

新十両の2010年11月場所では西十両13枚目で7勝8敗、2011年1月場所では東十両14枚目で7勝8敗と負け越すが残留、同年3月場所では6勝9敗と負け越すものの大相撲八百長問題の影響で同年5月場所は自己最高位の番付を更新、10勝5敗と大きく勝ち越した。また、十両での勝ち越しはこの場所が初めてである。負け越しつつも十両に残留することが多く、番付運には恵まれている。同年9月場所では西十両2枚目で勝ち越し、10月31日に翌場所での新入幕(西前頭16枚目)が発表された。学生相撲出身では初土俵(幕下60枚目格付出)から所要59場所で入幕を果たした同部屋の武州山を抜き、初土俵から所要63場所という最スロー出世である[1]。

この「運」はすごい。ある意味「木村山」ばりである(苦笑)

しかし、「好事魔多し」

やはり、「古傷」は完治せず。引退をよぎなくされる。

一方の、垣添の、土俵人生最後は決して楽ではなかったが
一時代を築いた「小兵力士」として「意地」を見せた。

そして、以下のエピソード

(以下ウィキペディア垣添)


長らく幕内中位から下位に定着していたものの、2010年は1場所も勝ち越しを果たせず、同年11月場所では十両に陥落した。2011年1月場所では西十両9枚目の位置で4勝11敗と大きく負け越してしまい幕下への陥落が濃厚となったため、2011年1月場所で引退する意向を一度は固めたものの、大学の同級生で長く付け人を務めてきた剣武の説得を受け翻意し、現役続行を決意した[1]。

幕下に陥落した同年5月技量審査場所でも3勝4敗と負け越したが、大相撲八百長問題で多くの力士が引退した影響により、負け越しの成績ながらも1場所での十両復帰を果たした。しかし再十両となった同年7月場所では西十両11枚目の位置で1勝14敗と大敗を喫してしまった。さらに2012年3月場所では幕下で7戦全敗を喫した。三役経験者の幕下以下での全敗は史上初めて。

2012年4月25日、現役引退を発表。今後は年寄:押尾川を襲名して藤島部屋付き親方となる[2]。


お互いが「励まし合って」土俵人生を維持してきたと言えよう。

私は、こういう「往生際の悪い」力士が大好きである!!!

「好きこそものの上手なれ」

最後は。自分の「仕事」を楽しむものが「勝ち」である。

垣添は「年寄」として後進の指導にあたるが、剣武のような苦労した力士が
「角界」に残れない「不条理」はいささか「残念」である。

たかが、「相撲」 されど「相撲」

この二人の物語は、「相撲道」の原点といっても「過言」ではないと思うよ(笑)