映画、「関ヶ原」公開

鑑賞してきました。
本編、二時間半。

まずは、一言。「薄い」

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プログラムを読みましたが、3カ月で撮ったとのこと。
どうりで無理があるなあと。

確かに、今の時代は、最初から「キャスト」ありき、そして「事務所」の意向。
わかってますよ。でも、原田監督。司馬さんの「関ヶ原」に挑戦したいとの意気込みなら
それはないでしょう。

この「大作」を、たった3カ月で撮りきる。はっきり言って無理!!!

キャスト
石田三成:岡田准一
初芽:有村架純
島左近:平岳大
小早川秀秋:東出昌大
徳川家康:役所広司

まずは、この5人はよしとします。
左近も、なかなかよかった!!!
初芽も、可愛い、少し「役」の流れには無理があったけどね。

東軍

井伊直政:北村有起哉
福島正則:音尾琢真
加藤清正:松角洋平
黒田長政:和田正人
本多正信:久保酎吉

西軍

大谷刑部:大場泰正
直江兼続:松山ケンイチ
安国寺恵瓊:春海四方
八十島助左衛門:堀部圭亮
島津惟新入道:麿赤児

西軍キャスト薄すぎ。
ほんとは、東軍も西軍ももっと「ポイント」になる人がいるのに。

西軍なんて、ほぼ、大谷刑部と島左近のみで動いていた。
おまけに、直江兼続(マツケンだから)

そして、「関ヶ原」までの

会津征伐→佐和山城での大谷・安国寺・増田の軍議→→小山評定
→伏見城落城→岐阜城争奪戦→杭瀬川の戦い 

など、要所の流れが全く描けていない。

正直、だらだらと流れを追っているだけの感じがした。

そして、当初から言っていた、小早川秀秋の「司馬史観」からの
脱却の「解釈」も、中途半端でした。

ごめんなさい。文句ばかりで。でも、この「大作」を敢えていどんだ
原田監督には「敬意」を評します。

できれば、3カ月では厳しい。2回か3回に分けて演じて頂きたかったです。

それほど、「関ヶ原」は難攻不落な「作品」と考えます!!!!


前回、関ヶ原のことを書いたので、大好きな大谷吉継にも触れてみたい。

大谷吉継

以下ウィキペディアより

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って指揮し奮戦するが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して果てた。

天正の始めごろ、秀吉の小姓となる。
賤ヶ岳の戦いでは、三成らともに七本槍と同等の「手柄」をたてたと言われている。

天正13年、関白になった秀吉と同時に、吉継は従五位下刑部少輔に叙任される。
「刑部」と呼ばれたのもこれに由来する。

天正14年、九州征伐では、兵站奉行・石田三成の下、功績を立てた。同年、三成が堺奉行に任じられると、その配下として実務を担当した。このころから、三成との「同盟」関係がよりひろがっていく。

天正17年(1589年)に越前国敦賀郡2万余石を与えられ、敦賀城主となる。

文禄・慶長の役では、三成らとともに、船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務めてその手腕を発揮し、勲功を立てている。

慶長3年秀吉が死去した後、吉継は五大老の徳川家康に次第に接近した。
慶長4年、家康と前田利家の仲が険悪となり徳川邸襲撃の風聞が立った際には、福島正則ら豊臣氏の武断派諸将らと共に徳川邸に参じ家康を警護している。

家康との関係も「良好」であり、バランスのある武将とて評価も高かった。


慶長5年家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張して上方の兵を率い上杉討伐軍を起こした。
家康とも懇意であった吉継は、所領地である敦賀・自らが代官を務める蔵入地から兵を募り、3,000の兵を率いて討伐軍に参加するべく領国を立ち、途中で石田三成の居城である佐和山城へと立ち寄る。

吉継は三成と家康を仲直りさせるために三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしたが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられる。

これに対して吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するが、三成の固い決意を知り熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも息子達と共に三成の下に馳せ参じ西軍に与した8月5日付の三成の書状「備えの人数書」によると、この後北国口の兵3万100の大将とされた。

そして、関ヶ原である。

松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5,000人が東軍に寝返り大谷隊を攻撃するが、初めから小早川隊の謀叛に備えていた直属の兵600で迎撃し、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力し、兵力で圧倒する小早川隊を一時は500メートル押し戻し2、3回と繰り返し山へ追い返したという。

その激戦ぶりは東軍から小早川の「監視役」として派遣されていた奥平貞治が重傷を負った(後に死亡)ことからも伺える。

しかし吉継が追撃を仕掛けたところへ、秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転、大谷隊に横槍を仕掛けた。これにより大谷隊は前から東軍、側面から脇坂らの内応諸隊、背後から小早川隊の包囲・猛攻を受け防御の限界を超えて壊滅、吉継は自害した。享年42。

辞世は「契りとも 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」で、これは戦闘中に訣別の挨拶として
送られてきた平塚為広の辞世「名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」
への返句となっている。

逸話
吉継は当時の仏教観で先生(せんじょう)の罪業に因する病として忌み嫌われていた癩病(ハンセン病)を患っており、崩れた顔を白い布で覆っていたとされる。関ヶ原の最後はもう目も見えず「輿」に乗って采配をふるっていたとも。
自分は自害するので、諸侯の最後の雄姿を見れないので、ひとりひとり、私の前で、名を名乗っていけと言ったとか。

吉継は石田三成のように最初から徳川家康を敵視しておらず、むしろ親しかった。

天正17年小田原征伐に赴く秀吉が駿府城に立ち寄ろうとしたとき、三成が「駿河大納言(家康)殿は北条左京(氏直)と縁戚であり、謀略があるやも知れず、入城を見合わせては」と述べた。
しかし浅野長政と吉継は「大納言殿はそのようなことをされる方ではない」と反論して秀吉に入城を勧めたという。

慶長5年諸大名の反対を押し切って会津征伐を決断した家康を「まさに天下の主ともなる人だけのことはある」
と高く評価している。

会津征伐に赴く際、近江佐和山城に立ち寄って石田三成から家康に対して挙兵に及ぶので共にしてほしいと誘われたときも、家康と三成の石高・兵力・物量の差から軍事経験の差、器量の差などを評して到底家康に勝てるわけがないと諌めている。


天正15年大坂城で開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していった。
この時、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者達は病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったが
三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み気軽に話しかけてきた。
その事に感激した吉継は関ヶ原において共に決起する決意をしたとされる。

(一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ち、周りの者達はさらに
その茶を飲むのをためらったが、三成はその膿ごと茶を飲み干し、おいしいので全部飲んでしまったから
もう一杯茶を注いでほしいと気を利かせたとされる)

関ヶ原の挙兵の直前、三成の横柄さを憂慮した吉継は、「お主(三成)が檄を飛ばしても、普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(徳川家康)の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前宰相(宇喜多秀家)を上に立て
お主は影に徹せよ」と諫言したという。本人を前にして「お前は横柄だから」と率直に言って諫言していることから、吉継と三成はお互いに言い合える仲であったことがわかる。他にも「(三成は)智慮才覚の段に於いては天下に並ぶ者無しであるが、勇気は不足していて決断力に欠ける」と忠告している。

逸話も、すべては本当のことはは定かではない。
しかし、大谷吉継という人間が、いかにバランス感覚があり、また「義」を重んじていた武将だったは確かなことである。

秀吉をして、「100万の兵を指揮させてみたい」と言われた吉継であったが、病の進行により、どちらかというと表舞台から
退いていたが、三成の「願い」を受け、彼の「人生」も動いていった。

「知」をもち、「義」を重んじる。このような、すばらしい人物がいまの「政権」にいるだろうか?
ノーである。 全く持って嘆かわしいものだ。

大谷吉継のような「心」があるものが、もう少しいたら日本も変わるのだろうが・・・・・


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映画、「関ヶ原」が公開される。

楽しみである。もちろん見に行くよ。

でも、私の「関ヶ原」は以下のTBSのドラマがバイブルである。
奇跡の「キャスト」

以下、ウィキペディアより。

『関ヶ原』(せきがはら)は、東京放送創立30周年記念番組として司馬遼太郎の小説『関ヶ原』を原作に、TBS系にて1981年1月2日から1月4日まで3夜連続で放映された大型時代劇。

第1話「夢のまた夢」
1598年8月、天下人・太閤豊臣秀吉が世を去った。秀吉の遺志を継ごうとする石田三成は、天下取りの野望に燃える内大臣徳川家康と対立を深めていく。やがて朝鮮の役に従軍していた諸将たちが帰国、武断派の筆頭であった福島正則、加藤清正らと三成と親しい小西行長らの反目も始まる。豊臣政権の内部分裂をよそに家康が勢力を伸ばしていく中、家康に次ぐ実力者である前田利家が死去。それを待っていたかのように福島・加藤らが三成の暗殺を計画。生命の危険を感じた三成は、小西や宇喜多秀家らの反対を押し切り、家康邸に逃げ込む。

第2話「さらば友よ」
三成は家康の調停により危機を脱したが、奉行職を解かれ佐和山城に隠退させられてしまう。親豊臣派の大名たちを排斥して、ますます勢力を伸ばしていく家康に対し、三成と結んだ会津の上杉景勝がその専横を責めて戦の準備を始めた。怒った家康は諸将を集めて上杉征伐を宣言し、大軍を率いて東国に下った。伏見を発つ夜、三成の挙兵を確信する家康は、伏見城の留守居を託した功臣・鳥居彦右衛門と別れの杯を酌み交わす。一方、三成の親友・大谷刑部は佐和山城に三成を訪れたところで三成から打倒家康の計画を告げられる。刑部は命を捨てる覚悟で三成の挙兵に加わる。細川忠興夫人ガラシャは人質としての大坂入城を拒否し屋敷に火を放って命を絶つ。この夜、日本は二つに割れた。

第3話「男たちの祭り」
挙兵した三成の檄に応え、毛利輝元・島津義弘・小早川秀秋らの諸将が大坂に参集した。鳥居彦右衛門の守る伏見城を落とした西軍と東国から転進して西に向かう東軍が関ヶ原で相まみえた。1600年9月15日早朝、合戦の火蓋が切られる。三成・宇喜多・大谷・小西らの奮闘で西軍優勢の内に戦いは進んだが、毛利・小早川・島津らの諸隊が動かない。正午、徳川隊から鉄砲を打ちかけられると、松尾山に陣を敷いた小早川隊がついに動いた。しかし松尾山から雪崩のように降りた小早川隊が急襲したのは、山麓に陣を敷く味方のはずの大谷隊だった。



私が、高校生で受験を控えた時期だったと思う。最高のドラマであった。

主なキャスト。

徳川家康  森繁久彌
本多正信  三國連太郎
鳥居元忠 芦田伸介
村越茂助  藤木悠
福島正則 丹波哲郎
加藤清正  藤岡弘
黒田長政 菅野忠彦
細川忠興 竹脇無我
堀尾忠氏  角野卓造
山内一豊 千秋実

西軍
石田三成 加藤剛
島左近  三船敏郎
毛利輝元  金田龍之介
宇喜多秀家  三浦友和
上杉景勝  三沢慎吾
大谷吉継  高橋幸治
小西行長  川津祐介
安国寺恵瓊 神山繁
直江兼続  細川俊之
小早川秀秋 国広富之
島津義弘 大友柳太朗
長束正家  森塚敏
増田長盛  平田昭彦
真田昌幸 玉川伊佐男

女性たち
初芽  松坂慶子
北政所  杉村春子
淀殿  三田佳子
芳春院  沢村貞子
阿茶の局  京塚昌子
細川ガラシャ 栗原小巻
お夏(家康の側室) - 古手川祐子
出雲の阿  木の実ナナ

その他
豊臣秀吉 宇野重吉
前田利家 辰巳柳太郎
前田玄以 庄司永建
原マルチノ 田中健
名古屋山三 三浦洋一
国友寿斎  笠智衆
神谷宗湛 北村和夫
北庵法印  大滝秀治
日野屋主人  藤原釜足
善説 下元勉
与次郎大夫  今福将雄

いやあ、すごいキャストです。
このドラマを見てから、私の「戦国時代」の小説への「傾倒」が如実になり
また、特に「西軍」への肩入れが始まりました。

特に、義の「武将」 大谷吉継への、興味が半端でなくなりました。
役の 高橋幸治さんも最高でしたので。

そんな、「大作」が久しぶりに復活します。キャストを考えてもたぶん「満点」は無理でしょう。

でも、今、改めて「関ヶ原」に挑む。この心意気を買いましょう。 
8月26日から公開。

楽しみです!!!

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今年も、ほとんど見なかった。

星野源と大竹しのぶのみ。 しのぶさんの「愛の讃歌」はよかった。

ゴジラ? タモリとマツコを「無駄遣い」しやがって。

受信料はらうのまたやめるぞ。まったくあほらしい。

来年からは、もう地上波で放送するな!!!
最近のお気に入り「女優」

相楽樹さん。かわいいな。

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