前回、関ヶ原のことを書いたので、大好きな大谷吉継にも触れてみたい。

大谷吉継

以下ウィキペディアより

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされるが、現存する古文書で「吉隆」と署名する文書は確認できず、いずれも「吉継」である。通称は紀之介、号は白頭。官途は刑部少輔で、大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って指揮し奮戦するが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して果てた。

天正の始めごろ、秀吉の小姓となる。
賤ヶ岳の戦いでは、三成らともに七本槍と同等の「手柄」をたてたと言われている。

天正13年、関白になった秀吉と同時に、吉継は従五位下刑部少輔に叙任される。
「刑部」と呼ばれたのもこれに由来する。

天正14年、九州征伐では、兵站奉行・石田三成の下、功績を立てた。同年、三成が堺奉行に任じられると、その配下として実務を担当した。このころから、三成との「同盟」関係がよりひろがっていく。

天正17年(1589年)に越前国敦賀郡2万余石を与えられ、敦賀城主となる。

文禄・慶長の役では、三成らとともに、船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務めてその手腕を発揮し、勲功を立てている。

慶長3年秀吉が死去した後、吉継は五大老の徳川家康に次第に接近した。
慶長4年、家康と前田利家の仲が険悪となり徳川邸襲撃の風聞が立った際には、福島正則ら豊臣氏の武断派諸将らと共に徳川邸に参じ家康を警護している。

家康との関係も「良好」であり、バランスのある武将とて評価も高かった。


慶長5年家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張して上方の兵を率い上杉討伐軍を起こした。
家康とも懇意であった吉継は、所領地である敦賀・自らが代官を務める蔵入地から兵を募り、3,000の兵を率いて討伐軍に参加するべく領国を立ち、途中で石田三成の居城である佐和山城へと立ち寄る。

吉継は三成と家康を仲直りさせるために三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしたが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられる。

これに対して吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するが、三成の固い決意を知り熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも息子達と共に三成の下に馳せ参じ西軍に与した8月5日付の三成の書状「備えの人数書」によると、この後北国口の兵3万100の大将とされた。

そして、関ヶ原である。

松尾山に布陣していた小早川秀秋隊1万5,000人が東軍に寝返り大谷隊を攻撃するが、初めから小早川隊の謀叛に備えていた直属の兵600で迎撃し、更に前線から引き返した戸田勝成・平塚為広と合力し、兵力で圧倒する小早川隊を一時は500メートル押し戻し2、3回と繰り返し山へ追い返したという。

その激戦ぶりは東軍から小早川の「監視役」として派遣されていた奥平貞治が重傷を負った(後に死亡)ことからも伺える。

しかし吉継が追撃を仕掛けたところへ、秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200人が東軍に寝返り突如反転、大谷隊に横槍を仕掛けた。これにより大谷隊は前から東軍、側面から脇坂らの内応諸隊、背後から小早川隊の包囲・猛攻を受け防御の限界を超えて壊滅、吉継は自害した。享年42。

辞世は「契りとも 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも」で、これは戦闘中に訣別の挨拶として
送られてきた平塚為広の辞世「名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」
への返句となっている。

逸話
吉継は当時の仏教観で先生(せんじょう)の罪業に因する病として忌み嫌われていた癩病(ハンセン病)を患っており、崩れた顔を白い布で覆っていたとされる。関ヶ原の最後はもう目も見えず「輿」に乗って采配をふるっていたとも。
自分は自害するので、諸侯の最後の雄姿を見れないので、ひとりひとり、私の前で、名を名乗っていけと言ったとか。

吉継は石田三成のように最初から徳川家康を敵視しておらず、むしろ親しかった。

天正17年小田原征伐に赴く秀吉が駿府城に立ち寄ろうとしたとき、三成が「駿河大納言(家康)殿は北条左京(氏直)と縁戚であり、謀略があるやも知れず、入城を見合わせては」と述べた。
しかし浅野長政と吉継は「大納言殿はそのようなことをされる方ではない」と反論して秀吉に入城を勧めたという。

慶長5年諸大名の反対を押し切って会津征伐を決断した家康を「まさに天下の主ともなる人だけのことはある」
と高く評価している。

会津征伐に赴く際、近江佐和山城に立ち寄って石田三成から家康に対して挙兵に及ぶので共にしてほしいと誘われたときも、家康と三成の石高・兵力・物量の差から軍事経験の差、器量の差などを評して到底家康に勝てるわけがないと諌めている。


天正15年大坂城で開かれた茶会において、招かれた豊臣諸将は茶碗に入った茶を1口ずつ飲んで次の者へ回していった。
この時、吉継が口をつけた茶碗は誰もが嫌い、後の者達は病気の感染を恐れて飲むふりをするだけであったが
三成だけ普段と変わりなくその茶を飲み気軽に話しかけてきた。
その事に感激した吉継は関ヶ原において共に決起する決意をしたとされる。

(一説には吉継が飲む際に顔から膿が茶碗に落ち、周りの者達はさらに
その茶を飲むのをためらったが、三成はその膿ごと茶を飲み干し、おいしいので全部飲んでしまったから
もう一杯茶を注いでほしいと気を利かせたとされる)

関ヶ原の挙兵の直前、三成の横柄さを憂慮した吉継は、「お主(三成)が檄を飛ばしても、普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願うものすら内府(徳川家康)の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元)か備前宰相(宇喜多秀家)を上に立て
お主は影に徹せよ」と諫言したという。本人を前にして「お前は横柄だから」と率直に言って諫言していることから、吉継と三成はお互いに言い合える仲であったことがわかる。他にも「(三成は)智慮才覚の段に於いては天下に並ぶ者無しであるが、勇気は不足していて決断力に欠ける」と忠告している。

逸話も、すべては本当のことはは定かではない。
しかし、大谷吉継という人間が、いかにバランス感覚があり、また「義」を重んじていた武将だったは確かなことである。

秀吉をして、「100万の兵を指揮させてみたい」と言われた吉継であったが、病の進行により、どちらかというと表舞台から
退いていたが、三成の「願い」を受け、彼の「人生」も動いていった。

「知」をもち、「義」を重んじる。このような、すばらしい人物がいまの「政権」にいるだろうか?
ノーである。 全く持って嘆かわしいものだ。

大谷吉継のような「心」があるものが、もう少しいたら日本も変わるのだろうが・・・・・


Ōtani_Yoshitsugu


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